シンガポール金融管理局(MAS)は2026年10月9日、トークン化したMAS Billsをシンガポールドル建てのホールセールCBDC(wCBDC)で決済する「次段階」を示しました。中央銀行が発行する短期証券の受け渡しと中央銀行マネーによる支払いを連動させる、金融機関向けの市場インフラ実証です。暗号資産の新銘柄や個人向けCBDCの発行ではありません。
現行のMAS BillsにもMEPS+を通じたDvP(証券の引き渡しと代金支払いを条件づける決済)があります。今回の核心はDvPを初めて導入することではなく、トークン化証券とwCBDCをどのような台帳構成で連携させ、照合や条件付き処理を改善できるかを確かめる点です。本番開始ではなく、実施日、発行額、参加者、採用DLT、単一台帳か複数台帳の連携かは未公表です。
| 最初に押さえる点 | 確認できる内容 |
|---|---|
| 発表内容 | トークン化MAS BillsをSGD wCBDCで決済する次段階へ進む |
| MEPS+との差 | 現行にもDvPはある。差は証券・資金の表現、接続、照合、自動化の設計 |
| 未公表事項 | 開始日、規模、参加者、採用DLT、台帳構成、現行基盤との併用方法 |
MASが発表した「次段階」は何か
トークン化MAS BillsをSGDホールセールCBDCで決済する方針
MAS長官の講演で示されたのは、トークン化MAS BillsをSGDホールセールCBDC(wCBDC)で決済する方針です。ここでいう「トークン化」とは、資産に関する権利や移転の記録をデジタル台帳上のトークンとして表現することを指します。紙の証券を画像にする話ではなく、保有者の変更や決済条件を台帳上で処理できる形にする取り組みです。
wCBDCは、中央銀行が発行し、主に銀行など適格な金融機関の間で使うデジタルな中央銀行マネーです。一般消費者が店舗で使うリテールCBDCとは対象が異なります。今回確認されているのは、資産側のトークン化MAS Billsと支払い側のwCBDCをDvPで結ぶ方針までです。両方を一つの台帳に置くのか、別々の台帳を連携させるのか、既存基盤をどこまで使うのかは公表されていません。
この発表の意義は、民間の預金トークンやステーブルコインではなく、信用リスクの基準となる中央銀行マネーで中央銀行自身の証券を決済する点にあります。BISも、中央銀行マネー、商業銀行マネー、政府証券をトークン化された仕組みで扱うことを次世代金融システムの重要な構成として整理しています。ただしMAS Billsは政府証券そのものではなく、MASの債務証券である点には注意が必要です。
実施日・発行額・参加者・採用DLTは未公表
発表を読むときに最も重要なのは、決まったことと決まっていないことを区別することです。MASは進む方向を明言しましたが、いつ実施するのか、どれほどの額を扱うのか、どのプライマリーディーラーや銀行が参加するのか、どのDLTを採用するのかは、入力調査の時点で示されていません。
したがって「トークン化MAS Billsの本番運用が始まった」「すべてのMAS BillsがwCBDCへ移行する」と読むのは早計です。発行条件、参加資格、障害時の代替手順、現行システムとの併用期間などが公表されて初めて、運用の具体像を評価できます。発表時点では、これまでの試験を踏まえて検証対象を中央銀行証券へ広げる方針、と捉えるのが正確です。
MAS Billsとは何か―暗号資産でも国債でもない
まなぶ「トークン化された手形なら、暗号資産のように誰でも売買できるんですか?」
クリプ「そうではないよ。今回の中心は、金融機関が扱う中央銀行の短期証券と、その決済方法なんだ。個人向けコインの話とは分けて考えよう。」
MAS自身が発行する機関投資家向け短期証券
MAS Billsは、MASが発行する短期で譲渡可能な中央銀行債務証券です。額面より低い価格で発行され、満期に額面で償還される割引方式を採ります。発行者はシンガポール政府ではなくMASであり、一般にいうシンガポール国債とは区別されます。
名称に「Bills」とあっても、今回の話は個人が暗号資産取引所で購入する新しいトークンではありません。MASの機関向け案内が示すとおり、制度の中心にいるのはプライマリーディーラーなどの市場参加者です。トークン化によって記録や移転の技術が変わっても、元の資産がMASに対する債権であるという経済的な性質まで別物になるわけではありません。
この区別はリスクを考えるうえでも重要です。トークン化されたという理由だけで、値上がりを狙う暗号資産になるわけではありません。台帳の形が変わっても、原資産がMASに対する債権であること、適用される規制・会計、保有資格、満期や償還条件を確認する必要があります。技術上の表現と証券の経済的・法的な実質は分けて評価します。資産を台帳上で表す基本はブロックチェーンの仕組みも参考になります。
銀行システムの流動性管理で果たす役割
MAS Billsの目的は、銀行システムの流動性を管理することです。銀行間に資金が過度に余っているとき、中央銀行が短期証券を発行して資金を吸収できます。買い手がMAS Billsの代金を支払うと、その資金が市場から中央銀行側へ移るためです。満期の償還では反対方向の資金移動が起きます。
この仕組みを理解すると、なぜ決済手段まで重要なのかが見えてきます。MAS Billsの発行や売買は単なるデータ更新ではなく、金融機関の資金残高を動かします。証券の受け渡しと資金の支払いがずれれば、参加者は一時的な資金不足や取引相手リスクを負う可能性があります。wCBDCによる決済は、この資金移動をトークン化された証券の処理と緊密に結びつけるための選択肢です。
現行のMEPS+決済とトークン化DvPはどう違うのか

まなぶ「DvPなら、証券とお金がまったく同じ瞬間に動くという意味ですか?」
クリプ「大切なのは、片方だけが完了しないよう相互に条件づけることだよ。ただし、技術上の処理完了と法律上の最終確定は別々に確認が必要なんだ。」
現行は入札T+3・流通市場T+1でMEPS+決済
現在のMAS Billsは、MASの機関向け情報によれば、入札による発行がT+3、流通市場での取引がT+1で決済されます。Tは取引日を表し、T+3は取引日の3営業日後、T+1は翌営業日という意味です。決済にはMEPS+が使われ、証券と資金を連動させるDvP(Delivery versus Payment)が行われます。
つまり、DvPそのものが今回初めて登場するわけではありません。現行制度にも、証券の引き渡しと代金支払いを条件づける仕組みがあります。新方式の比較対象は「DvPがあるか、ないか」ではなく、トークン化された証券とデジタル中央銀行マネーをどの基盤で処理し、どこまで一体化・自動化・相互運用できるかです。
初心者が混同しやすいのが、取引の約定、清算、決済の違いです。約定は売買条件が合意されること、清算は支払額や受渡数量を確定すること、決済は実際に証券と資金の移転を完了することです。トークン化はこれらの工程を近づけられる可能性がありますが、すべてを同じ制度主体が担うとは限りません。
未公表の台帳構成でDvPをどう実現するか
トークン化DvPが目指すのは、証券トークンの移転と支払いトークンの移転を相互に条件づけ、一方だけが完了する元本リスクを抑えることです。スマートコントラクトなどを用いれば、条件が満たされたときに両方を実行し、満たされなければ両方を実行しない処理を設計できます。一般に「アトミック決済」と呼ばれる考え方です。
一般論として、証券と中銀マネーを単一台帳で扱う設計なら、台帳をまたぐメッセージ交換を減らせる可能性があります。複数台帳を連携させる設計なら、既存機能を生かしやすい一方、台帳間で状態を同期し、片方だけが確定しない仕組みが必要です。MASがどちらを採るかは未公表です。BISは、中銀マネーによる決済が通貨の単一性と決済の確定性を支えると説明しています。
| 比較軸 | 現行MEPS+ | 今回示された新方式 |
|---|---|---|
| 証券の形 | 現行のMAS Billsを証券決済機能で移転 | MAS Billsの権利・移転記録をトークンで表現 |
| 決済資産 | MEPS+上の中央銀行マネー | SGD建てwCBDC |
| 台帳構成 | 既存の資金・証券決済基盤 | 単一台帳、連携台帳、既存基盤との接続のいずれかは未公表 |
| 接続・照合 | 確立済みのメッセージと業務手順 | トークン間の条件付き処理で削減できるかを検証 |
| 自動化 | 現行ルールに沿うDvP | スマートコントラクト等による条件実行が設計候補 |
| 決済時期 | 入札T+3、流通市場T+1 | 未公表。即時・24時間化が決まったわけではない |
| 確定事項 | 現行運用中 | トークン化MAS BillsをwCBDCで決済する次段階へ進む方針 |
| 未公表事項 | ― | 日程、規模、参加者、DLT、法的最終性、MEPS+との関係 |
新方式の効果は、処理時間だけでなく、失敗率、必要な現金・担保、照合作業、接続費、運用要員、障害復旧時間を同じ条件で比べて判断します。条件をコードで実行する考え方はスマートコントラクトの解説、DvPの別事例はDvPとアトミック決済の事例でも確認できます。
SGD Testnetと銀行実証が築いた土台

DBS・OCBC・UOBによる銀行間翌日物貸借の実決済
今回の方針には前段があります。SGD Testnetは、wCBDCの発行、移転、償還を検証するための基盤として整備されました。MASの説明では、決済、プログラマビリティ、既存・新規の金融インフラとの相互運用が主要な機能です。単にデジタル通貨を作るだけでなく、条件付き処理と接続性を試す場として位置づけられています。
2025年にはDBS、OCBC、UOBが、銀行間翌日物貸借をSGD Testnet上のwCBDCで実決済しました。翌日物貸借は、銀行が短期的な資金の過不足を調整する基本的な取引です。実取引を用いた試験が行われたことは、模擬データだけの実験から一歩進んだ実績を示します。
ただし、この先行実績からMAS Bills決済の本番対応を自動的に導くことはできません。無担保または特定条件の銀行間貸借と、証券の発行・流通を伴うDvPでは、関係する台帳、権利移転、担保、規制報告が異なります。今回の「次段階」は、wCBDCの移転能力を、証券という別の資産側と組み合わせて検証する意味を持ちます。
証券DvP・日中レポ・24時間決済へ広がる検証
銀行側でも用途は広がっています。UOBとOCBCはSGD Testnetで、証券とCBDCの同時交換や日中レポなどを検証しました。レポは、証券を売却すると同時に将来の買い戻しを約束する取引で、実質的には証券を使った短期の資金調達として機能します。日中レポは同じ日の中で資金と証券を往復させ、決済時間中の流動性を補う用途が考えられます。
DBSは過去のUbin、Orchid、Guardianなどを、決済、プログラム可能な通貨、トークン化資産へ続く取り組みとして説明しています。24時間処理が可能になれば営業時間の制約を減らせる一方、人員配置、監視、障害復旧、流動性供給も24時間を前提に再設計する必要があります。「いつでも動く」は利便性であると同時に、運用責任が続くという意味でもあります。
SGD Testnetの役割を一言でいえば、安全性と機能を限定された環境で確かめることです。テストネットでの成功は重要な材料ですが、参加者数や取引量が増えた場合の性能、異なる台帳との接続、法的な権利保護まで保証するものではありません。試験結果を見るときは、実取引か模擬取引か、金額や期間、失敗時の扱い、従来方式との比較条件を確認する必要があります。
Project GuardianとBLOOMから読むMASの全体戦略
資産トークン化を進めるProject Guardian
MAS Billsだけを見ると単発の技術実験に見えますが、MASは資産とマネーの両側で複数の取り組みを進めています。Project Guardianは、金融機関や政策当局とともに資産トークン化のユースケース、標準、相互運用、リスク管理を検討する枠組みです。2022年の初期実証では、トークン化預金を使った外国為替取引や国債取引が試されました。
Guardianの役割は、特定の暗号資産を普及させることではなく、規制された金融市場でトークン化をどう利用できるかを検証することです。債券、外国為替、資産運用などの取引を台帳上で表現しても、市場公正性、顧客資産の保護、適切なリスク管理が不要になるわけではありません。むしろ、コードや台帳運営者が取引の重要部分を担うため、ガバナンスの所在を明確にする必要があります。
MAS BillsとwCBDCの組み合わせは、資産のトークン化を決済までつなぐ工程と理解できます。資産トークンだけを発行しても、安全で流動性のある支払い手段がなければ取引は完結しません。反対に、wCBDCだけがあっても、決済対象の証券が別システムに残れば接続や照合が必要です。両側を一緒に試すことに、今回の実証の意味があります。
複数のデジタルマネーを検証するBLOOM
BLOOMは、トークン化銀行マネーや規制対象のステーブルコインを使った国内・越境決済を検証する取り組みです。ここから分かるのは、MASが決済手段をwCBDCだけに統一しようとしているわけではないことです。用途や参加者に応じ、中央銀行マネーと規制された民間マネーが共存する構想を検討しています。
中央銀行マネーは決済の最終的な安全資産として重要ですが、すべての利用者が直接アクセスするとは限りません。商業銀行預金は銀行による信用供給や顧客サービスと結びつき、ステーブルコインには異なるネットワーク上での利用可能性があります。どれか一つが常に優れるのではなく、信用リスク、利用資格、規制、プライバシー、接続先を踏まえて使い分ける必要があります。
全体像は、資産側のGuardian、中央銀行決済側のSGD Testnet、民間デジタルマネー側のBLOOMという三つの観点で整理できます。これらが将来どの程度統合されるかは未確定ですが、MAS Billsの実証は、そのうち資産と中央銀行決済を具体的に結ぶケースです。
wCBDC・トークン化預金・規制ステーブルコインの違い
まなぶ「wCBDCもトークン化預金もステーブルコインも、結局はデジタルのシンガポールドルですよね?」
クリプ「額面が同じでも、誰の債務か、誰に償還を求められるかが違うよ。見た目ではなく発行主体と権利を確かめるのが基本なんだ。」
中央銀行マネーと民間マネーで異なる信用の所在
三つのデジタルマネーは、同じシンガポールドル建てでも法的・経済的な性質が違います。wCBDCはMASの直接債務で、利用者は原則として適格な金融機関です。トークン化預金は商業銀行の預金債務をトークンとして表現したもので、その銀行に対する請求権です。規制ステーブルコインは民間発行者の債務または償還約束であり、準備資産と規制要件によって額面価値の維持を目指します。
| 種類 | 主な発行主体 | 信用の所在 | 主な利用範囲 |
|---|---|---|---|
| wCBDC | MAS | 中央銀行への直接請求 | 主に適格金融機関の決済 |
| トークン化預金 | 商業銀行 | 発行銀行への預金請求 | 銀行顧客・銀行間の設計範囲 |
| 規制ステーブルコイン | 認可・規制を受ける民間発行者 | 発行者と準備資産の仕組み | 認められたネットワークや用途 |
違いを見るポイントは、画面上の「1 SGD」という表示ではありません。発行主体が誰か、保有者は誰に償還を求められるか、発行者が破綻したとき準備資産がどう保護されるか、中央銀行マネーへどの条件で交換できるかが重要です。トークン同士が同額で交換されている平常時でも、ストレス時には信用の差が表面化する可能性があります。
このため、MAS Billsの決済にwCBDCを使う方針は、決済資産の信用リスクを中央銀行に置く選択といえます。しかし、アクセスできる参加者が限定されるなら、顧客側の支払いや他市場との接続には商業銀行マネーなどが引き続き必要です。金融システム全体では、異なるマネーの交換可能性と額面の単一性をどう保つかが課題になります。
MAS規制ステーブルコインに求められる準備資産・資本・償還・開示
MASが2023年に最終化した単一通貨型ステーブルコインの枠組みでは、準備資産の構成・保管・監査、最低資本、額面での償還、利用者への開示などが主要要件とされました。2026年には、その制度を実装するPayment Services Act改正案について意見募集が行われています。これは民間発行者を規律する制度で、MASが直接発行するCBDCとは別です。
「MAS-regulated stablecoin」という表示は、要件を満たした発行者のステーブルコインを識別するためのものであり、MASが価値を保証するCBDCという意味ではありません。準備資産があっても、保管先、換金にかかる時間、法的な分別、発行者の業務継続性によってリスクは変わります。
今回のMAS Bills実証とステーブルコイン規制が同時期に進んでいるからといって、MAS Billsをステーブルコインで決済する方針が決まったとはいえません。発表された組み合わせはwCBDCです。将来、異なる決済資産との相互運用が検討される可能性はありますが、入力調査にない採用予定や時期を推測するべきではありません。ステーブルコインの基礎はステーブルコインとは何かでも確認できます。
実用化までに残る法務・相互運用・運用リスク
技術上の完了と法的な決済完了は同じではない
スマートコントラクトが証券と資金を同時に更新しても、その記録が法律上いつ取り消せなくなるかは別問題です。決済ファイナリティとは、成立した資金・証券移転が最終的で、後から覆されない状態を法制度上も確保することです。参加者の倒産直前に処理された取引、誤った命令、コードの不具合、裁判所による差し止めなどをどう扱うかを定めなければなりません。
BISの整理でも、相互運用する台帳と中銀マネーを制度の錨にするには、法的確実性と参加者保護が必要とされています。台帳上でブロックが確定した時点、運営者が承認した時点、既存の決済法制が最終性を認める時点が一致するとは限りません。実用化の評価では、コードの処理速度だけでなく、準拠法と紛争解決、誤処理の訂正権限まで確認する必要があります。
台帳間接続・プライバシー・AML/CFT・責任分界
金融機関は一つの台帳だけで業務を完結しません。MEPS+、証券保管、顧客口座、会計、担保管理、規制報告など複数の仕組みを使っています。新しい台帳が高速でも、周辺システムとのデータ形式や稼働時間が合わなければ、手作業の照合が別の場所に残ります。相互運用は単にブリッジを置くことではなく、参加者ID、資産コード、時刻、取消条件などの意味をそろえる作業です。
共有台帳では、必要な参加者が取引を検証できる一方、取引金額や相手先をどこまで見せるかが課題になります。情報を隠しすぎればマネーロンダリング・テロ資金供与対策(AML/CFT)や監督が難しくなり、見せすぎれば取引戦略や顧客情報が漏れるおそれがあります。監督当局、台帳運営者、参加銀行、スマートコントラクト開発者のうち、誰が本人確認や監視、修正、損失負担を担うかも明文化が必要です。
IOSCOは金融資産トークン化がなお初期段階にあり、相互運用と信頼できる決済資産が拡大の壁になると整理しています。標準化が不十分なまま複数基盤が増えれば、資産が特定の台帳に分断され、流動性も分散します。接続を増やせば便利になる一方、認証鍵やメッセージ変換の弱点が攻撃経路になるため、接続性と安全性を同時に設計しなければなりません。
障害やサイバー攻撃、即時化による流動性流出
トークン化は既存金融のリスクを消しません。共通基盤や主要ブリッジに処理が集中すれば、障害やサイバー攻撃、秘密鍵の管理ミス、スマートコントラクトの不具合が多くの参加者へ同時に波及する可能性があります。更新プログラムの承認手順、緊急停止の権限、データ復旧、代替決済、インシデント情報の共有を事前に用意する必要があります。
即時決済は、取引相手への未決済エクスポージャーを短くし得ます。一方で、ネッティングによって相殺していた支払いを一件ずつ即時に行えば、参加者が日中に必要とする資金や担保が増える場合があります。24時間動く市場では、ストレス時の資金移動も速くなる可能性があります。Bank of Canadaの整理が示すように、開放性や速度は競争を促す半面、監督やリスク管理を難しくし、ストレス伝播を速め得ます。
したがって「決済が速いほど常に安全」とは限りません。待ち行列、流動性節約機能、日中信用、取引上限、緊急時の停止・再開といった仕組みを組み合わせる必要があります。中央銀行マネーを使うことで決済資産の信用リスクは抑えられても、運用、流動性、サイバー、法務のリスクは残ります。
実施条件と費用・流動性の比較データが判断材料
今後の発表で確認したい第一の項目は、実施条件です。開始時期、対象となるMAS Bills、発行額、参加機関、利用時間、採用技術、MEPS+との関係が明らかになれば、試験の範囲を判断できます。第二は法的条件で、トークンが表す権利、保有者記録、決済ファイナリティ、倒産時の扱い、障害時の責任が重要です。
第三は比較可能な実績です。処理件数や速度だけでなく、参加者が必要とした現金・担保、決済失敗率、照合作業、システム接続費、運用要員、障害復旧時間を現行方式と比べる必要があります。取引の一部だけを新基盤へ移して周辺作業が増えた場合、台帳上の処理が速くても全体コストは下がらないことがあります。
第四は拡張性です。少数行の限定試験から参加者や商品を増やしたとき、処理性能、権限管理、監視、緊急対応を維持できるかを見ます。参加者数と取引量、ピーク時の処理能力、正常に完了した割合、復旧目標、代替手順が示されれば、本番移行の現実性を評価しやすくなります。対象を越境取引へ広げる場合には、通貨、時差、準拠法、参加資格、データ移転規制という追加条件を切り分ける必要があります。
関連する制度との比較は補助線にとどめます。ECBのPontesとDLT決済にも既存基盤とDLTをつなぐ論点がありますが、制度、対象資産、参加者、法的基盤が違います。MAS Billsの評価では、まずMASが公表する設計とMEPS+との同条件比較を優先します。
まとめ―今回決まったこと、未公表事項、次に見る数字
- 今回決まったこと:MASは、トークン化MAS BillsをSGD wCBDCで決済する次段階へ進みます。現行にもDvPはあり、新方式はトークン化証券と中銀マネーの連携方法を検証するものです。
- まだ決まっていないこと:開始日、発行額、参加者、採用DLT、単一台帳か連携台帳か、決済時期、法的ファイナリティ、MEPS+との併用方法は未公表です。
- 次に見る数字・条件:処理時間と成功率だけでなく、必要な現金・担保、照合作業、接続・運用費、障害復旧時間を現行方式と同じ条件で比較できるかが判断材料です。